【2024年】鉄砲鍛冶

「包丁の堺徳」のオーナー、奥平(おくだいら)です。

地元、大阪・堺の包丁を売りたいと思い堺の刃物メーカーから堺の包丁を仕入、販売しています。

単に包丁を売るだけでなく、お客様に包丁のことを理解してもらえるように、堺の鍛冶屋、刃付屋を何軒も訪問し、実際の作業を体験させていただき、職人さんからお話を伺ってきました。また、堺だけでなく、岐阜の関、新潟の燕三条、種子島、東京の葛飾の刃物製作所も訪問し、それぞれの特徴やこだわりなどの理解も深めるように努めています。

 

鉄砲鍛冶

みなさんは、鉄砲が鍛冶仕事で製作されていたことをご存じでしょうか。
鉄砲は1543年にポルトガルから種子島に入ってきました。その後、種子島で鉄砲作りが始まるのですが、種子島の鍛冶屋さんがポルトガルから入ってきた鉄砲を研究して作ったそうです。
鉄砲を作る際、まず鉄を鍛造といった鉄を叩いて伸ばしたりして成型する作業をします。一枚の鉄の板を筒状にしたり、筒状の銃身に別の鉄の板を巻き付けていったりして鉄砲を作っていくのですが、その鉄を加工するのに鍛冶屋さんの技術が生かされているというわけです。
日本ではもともと日本刀を作っていた訳ですから、日本各地に鍛冶屋さんがいて、武士に刀を提供していた訳です。鉄砲が伝わった種子島は、良質の砂鉄が取れるので、鉄砲の製作にも向いていたということです。
種子島に伝わった鉄砲は、やがて大阪の堺に伝わり、堺で鉄砲の製作がされるようになります。
全盛期では堺に100軒ほどの鉄砲鍛冶屋がいたそうです。
堺で製作された鉄砲の多くは武士に提供されたようです。1800年代には、月に200丁ほどの鉄砲を製作していたようです。機械生産が普通の現代からするととても少ない生産量だと思うかもしれませんが、すべて手作業で製作していたことを考えると大変な数だと思います。鉄砲だけでなく大砲の製作も含まれていたそうですから。
現在、堺には鉄砲鍛冶屋は存在しませんが、鍛冶仕事から派生して鉄に関する産業が発達した地です。例えば、我々が取り扱っている包丁。堺の包丁は、江戸時代、幕府から「堺極」の銘を受け、全国に堺の包丁の名を知らしめたと言われています。現在も料理人の9割が使っているとも言われる堺打刃物の包丁は鍛冶仕事なしでは語れません。現在でも機械生産ではなく、1丁1丁手作業で製作される包丁の切れ味は抜群のものだと思います。機械生産ではできない切れ味や耐久性は、日本刀の製作技術と同じ世界に類を見ない製作技法があるからでしょうか。
日本刀に鉄砲、包丁、鋏、これらはすべて鍛冶仕事によって生み出される道具です。
使い捨てではなく、研ぎ直しなどのメンテナンスをすることで永く使っていただきたいと思います。

 

包丁販売店に行ってみよう!

実際にものを見てみないとよくわからないという方は、包丁販売店に行って、実際に包丁をもってみてください。ただし、ほとんどのお店では試し切りはさせてもらえないので、切れ味を確かめて買うことはできません。

近くに包丁販売専門店がない場合は、包丁専門店の通販サイトで購入されるのがよいでしょう。

「包丁の堺徳」では、実際に切っているところを動画にして公開していますので、参考にしてください。

包丁の堺徳 - YouTube

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