堺打刃物の歴史

堺の打刃物の歴史は5世紀頃に作られた世界最大の古墳と言われている仁徳天皇陵の構築にまでさかのぼります。

最大全長840m 最大幅654mの巨大な古墳は構築に15年以上の歳月をかけて建造されたと言われています。

当時土を耕したり穴を掘るための鋤やクワが大量に必要になり、それらを作る為に日本中から鍛冶職人が集められ堺に住み着いたと伝えられています。

戦国時代の堺は自由都市として盛大に栄えていたと言われています。

ポルトガルから種子島に伝来した火縄銃が堺に持ち込まれると優れた鍛冶の技術で瞬く間に日本で有数の火縄銃の産地となりました。

堺製の火縄銃の品質はときの戦国武将達からも絶大な支持を受けており、かの戦国武将の織田信長が生涯こよなく愛した火縄銃も堺製だったと言われいます。

江戸時代に入ると次第に火縄銃の需要は減っていき堺の火縄銃は実用品から装飾を楽しむ形へと移り変わっていく事になります。

生産数も激減しているさなかポルトガルから持ち込まれたタバコが人々の間で広がり始めました。

同時にタバコの葉も国内で栽培されるようになり葉を刻む為の包丁を堺の職人達が作り始めたのです。これが後の堺刃物の起源になると言われています。堺製のタバコ包丁は非常によく切れて長持ちする事が理由で当時の江戸幕府が政府専売品として「堺極」の刻印で日本全国に販売するほどだったと伝えられています。

時代の流れと共にタバコの生産が機械化されていき堺のタバコ包丁は必要とされなくなりました。

それまでタバコ包丁を作っていた職人達はその経験と技術を生かして料理用の包丁を作り始めたのです。

堺刃物の特徴は分業制と言われて鍛冶、刃研ぎの職人がそれぞれの仕事を極める為に生涯の時間を費やしています。お互いが切磋琢磨する事により他産地に類をみない高品質の包丁が生まれているのです。

昭和57年に堺打刃物は伝統的工芸品に指定されその品質は日本のみならず世界にも広く認められています。